番外編  山形県白鷹町

白鷹の即身仏

 五月の中旬、仕事の関係で山形県の南部、最上川上流の置賜(おきたま)地方に行きました。置賜で買い物をすると店の人に「おしょうしなー」とか「おしょうしなっし」と言われることがあります。「ありがとうございます」という意味ですが、これを初めて聞いた時、何とも言えない人情味のある言葉に思えたので、これを聞きたいがために欲しくもない物をあちこちで買っていました。しかし、コンビニやなんかのアルバイトの若い子は普通に「ありがとうございます」と言うから、スーパーやなんかで「おしょうしなっし」と言ってくれそうなおばさんがいるレジを狙って行くという妙なことをしていました。当たる確率は三分の一ぐらいでした。

蔵高院 白鷹町

 明日は金沢へ帰るという日、西置賜郡白鷹町というところの山の中を車で走っていました。昨日も通った道なのに、どうも昨日とは景色が違って見えます。しかし、目標物などない山の中なのでそのまま行くと、昨日は通過しなかった小さな集落に入ってしまいました。そして集落のはずれの小さな川に架かる橋で、その先は道がなくなっていました。道は正面のちょっと小高くなったところにある大きな家に続いていたのです。車を止めてよく見ると家の下に「江戸時代のミイラ、蔵高院」と書いた看板があります。家だと思ったのは即身仏を安置したお寺でした。
 引き返すしかありませんが、その前に、こんなところ滅多に来られないのだし、これも何かの縁だから即身仏を見せてもらおうと思い、お寺に行ってみることにしました。即身仏はだいぶ前に写真を見てから一遍見てみたいと思っていたのでした。あとで思えば、迷子になっているのにのんきなものです。

 お寺の前まで行ってみると本堂入り口の戸に「遠いところからお参りに来ていただき有り難うございます。恐縮ですが、現在無人になっていますので御用の方は左のところへ電話してください。五分以内にまいります。」なんて書いた紙が貼ってあります。その字はうすくなっていました。しかし、本堂には庫裏と呼ぶには現代風すぎる住居と思われる建物が連結しているし前庭もきれいに手入れしてあって、まるっきり人の住んでいない様子でもなかったので、試しに玄関のブザーを押してみました。が、やはり返事はありません。
 ぼくは携帯電話というものを持っていません。こんなところに公衆電話があるだろうか、しかし、こんな貼紙を出しているからにはどこか近くに電話できるところがあるはずだと思い、川向こうの道を見下ろすと、開いているのだか閉まっているのだかよく分からない、何屋さんなのかもよく分からない店の前にテレホンカードの使える公衆電話が見えました。行ってみると長く誰も使っていないのか、埃だらけで受話器にはクモが巣を張っています。あるにはあったが、これは使えるのか、まあ、大丈夫だろう、と掛けてみると、果たして通じました。若い男性の声で、即身仏ですか、すぐに行きます、という返事だったので、ホッとしてお寺に戻り待つことにしました。

ジュウニヒトエ ヤマオダマキ

 前庭にはジュウニヒトエとヤマオダマキが紫色の花をきれいに咲かせています。それを眺めながら、即身仏が見られるんだ、本物はどんなだろうか、と少しうきうきして待っていると、本当に五分ほどしてちっちゃな車でやってきたのは、おねえさんとおばさんの境目ぐらいの女の人です。そして、どうもどうも、あちらへお回りください今開けますから、と言って、住居の方から中へ入ると本堂の戸を開けてくれました。
 暑い日だったので女の人は戸に窓と開くところは全部開け放つと、こちらです、と本堂隅の車庫みたいなシャッターの前へぼくを案内しました。ぼくが怪訝な顔をしていると女の人は、どうぞお参りしてください、と言って柱のボタンを押しました。
 ギギギー、キュルキュルとすごい音を立ててシャッターがゆっくりと上がりはじめます。即身仏が下の方からだんだんに姿を現してきます。なんだかおどろおどろしい感じです。女の人はいつの間にかいなくなっていて、ぼくは一人になっていました。窓も戸も開いていて明るいから良いようなものの、これが締め切られた薄暗い部屋だったりしたら逃げ出していたかも知れません。漸くシャッターが上がりきって音が止み静かになると、どこからともなくテープの声で説明が聞こえてきました。

 ちょっと衝撃的な即身仏は、保護のためのガラスを三方にはめ込んだ厨子に人形みたいにして入っています。褐色の衣に錦の袈裟を着け、ちょっと横向きかげんの頭には袈裟と同じ錦の法冠を被り、きちんと合掌した手には数珠を下げています。凄いの一言です。ぼくはそこにあった線香を一本上げました。
 この即身仏は光明海上人(こうみょうかいしょうにん)というお坊さんで、入定は今から147年前の江戸時代末期、ペリーが浦賀にやってきた翌年の嘉永7年(1854年)だったそうですが、100年経ったら掘りだせと遺言して地下に入ったという言い伝えがこの土地に残されていたそうです。その言い伝えに基づき昭和53年にその入定窟と伝えられていた墳墓を掘ってみたところ、言い伝え通りに石室(いしむろ)の中から遺体が出てきたのだそうです。その発掘の時の模様を写した写真や出土した木棺の一部や副葬品なども展示してあります。
 あまりにも長いあいだ土中にあったので、ごく一部分を除いてほとんど白骨化していたということですが、発掘に関わった人達は上人の意思を尊重したいと考え、再び埋葬せずに化学処理を施し即身仏として安置することにしたのだそうです。このような即身仏なので、衣から出ている頭や両手はミイラではなくて骸骨そのものでした。

 明治維新まであと14年という幕末に、100年経ったら掘りだせと遺言して、自らを生きながら土中の石室に埋めたこのお坊さんはどんな人だったのか。湯殿山行者光明海上人というだけで、それ以上のことを知る手掛かりは何のも残っていないのだそうです。しかし、その遺言が明治維新、太平洋戦争、戦後の混乱を通過して、その間にこの山里でも価値観が大きく変化しただろうに、それでも忘れ去られることなく後世に伝えられ、亡くなってから124年目にして掘りだされるとほとんど白骨化していたその遺体が、普通ならそのまま再埋葬されるところを即身仏として奉られているというこの事実を考えると、このお坊さんの即身仏となって衆生救済に尽くしたいという願いは、よほど強いものだったのに違いありません。そして、きっと掘り出してくれ、と石室の中から地上の人々の心にずっと語り掛けていたのだろうと思えてなりませんでした。光明海上人は再び地上に戻りその願いがかなえられた時に「おしょうしなっし」と言ったかも知れません。

 こうして、ぼくがはじめて見た即身仏は完全なミイラではありませんでしたが、とても感動的でした。この翌日、金沢への帰りに回り道をして寄った酒田市で、思いがけず完全にミイラ化している二体の即身仏を見ることができたのでした。(平成13年6月6日 メキラ・シンエモン)


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