参 考

泰澄大師と白山信仰

泰澄大師像 白山本地堂 白山は、泰澄大師(たいちょうだいし、682あるいは691−767)が開いたといわれています。開いたというのは、初めて白山で修験道の修行を行い、白山の神を祀り、それまで素朴な山岳信仰だった白山信仰に、仏教的な意義付けをしたという意味でしょう。
 泰澄は越前の人で、高句麗からの亡命帰化人の子であったといいます。伝承によると、奈良時代より少し前の文武天皇の時(702)、鎮護国家法師に任命されています。また、中央の仏教界、政界の有力者などとの密接な関係を持ち、白山信仰を中央にまで広めたといいます。
 ところが、そんな偉い人なのに、正式な記録文書には泰澄の名は見えないんだそうです。それで、泰澄は中央との関係が本当は無かったのではないかとも言われています。ひょっとすると、実際の泰澄は中央の仏教界とは無関係の民間の仏教信者、一介の修行僧にすぎなかったのかも知れません。しかし、例えそうだったとしても、泰澄が白山の神をもっとも熱心に説いて回った人であったことの否定にはなりません。
 また、実際、奈良時代から白山信仰は中央の貴族の間で盛んでした。京都の醍醐寺にも白山信仰が受け継がれていて、三宝院には白山権現を祀る社があり、山上には白山遥拝所があります。つまり、中央に白山信仰を伝え広めた人がいたはずです。それが泰澄だったと考えても不都合はないように思います。

 江戸時代、加賀、越前、美濃の三国間には、白山山頂の領有をめぐっての激しい争いがありました。その先頭に立っていたのが、等しく泰澄を開基と称する、それぞれの馬場(ばんば、信仰登山の登口)にあった白山神社でした。この争いは、最後には、江戸幕府が山頂と山麓の村を天領とすることで決着がつきますが、争いの本質は宗教的なものではなくて、むしろ権益を奪い合うということでした。それは、耕地の少ない山間に暮らす人々にとっては、生活の掛かった極めて現実的な問題であり、仕方のないことだったのでしょう。その様子を泰澄は極楽から見て、悲しんでいたかも知れません。
 しかし、そんな争いの中にあっても、加賀、越前、美濃の白山麓に暮らす人々の白山信仰に変りは無く、その素朴で純粋な心は、高くそびえ雪を頂く美しい山、白山を敬い仰ぎみていたということは、言うまでもないことです。(メキラ・シンエモン)
 


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